日本海軍 戦艦 榛名





キット : フジミ 榛名

 榛名は大正4年4月19日、金剛型巡洋戦艦の三番艦として竣工しました。
 建造は民間企業である神戸川崎造船所。この榛名と三菱長崎造船所で建造された4番艦霧島は民間に発注された最初の主力艦でした。
 そんな経緯からか、榛名と霧島は激しい競争のもとで建造が進められます。民間初の戦艦建造、しかも企業間の競争というかつてない状況からか、榛名の工程の遅れによる当時の川崎の造機部長の自殺という事件まで起こってしまいます。
 榛名と霧島の竣工日が同じ4月19日というのはこの状況を海軍が慮ったからと言われます。



 第一次大戦たけなわの1915年12月、榛名、霧島の完成で金剛型4姉妹はに第二艦隊第三戦隊に編成されます。
 35.6センチ砲8門、速力27.5ノットの第一級の性能を持つ巡洋戦艦4隻によるこの第三戦隊は世界最強とも言われており、ドイツ海軍と対峙していたイギリスからは貸与もしくは欧州派遣を要請されるほどでした。

 もしこの時、要請を受け欧州へ派遣されていたらドイツ巡洋戦艦デアフリンガーやリュッツオウと砲火を交えたかも知れません。また日本海軍に対抗して日本陸軍が1個でも2個でも師団を派遣していたら…その後の歴史はまた違ったものになっていた事でしょう。



 太平洋戦争開戦時、金剛型の艦齢はすでに26年となっておりました。しかしその能力は第一次、第二次の大改装を経て、いまだ有力なものでした。第一次改装ではジュットランド沖海戦の戦訓から装甲が強化されましたが速力が26ノットに低下し、それに伴い艦種類別は巡洋戦艦ではなく戦艦となりました。
 第二次改装では主機の交換により30ノットの速力と主砲の仰角引き上げによる射程の増大等、攻走守のバランスの取れた高速戦艦へと改装されました。



 大戦中は南方攻略支援ではPOW、レパルスに備え、インド洋作戦では機動部隊護衛、ミッドウェイ海戦では奮戦するも4空母を守りきれず、ソロモン方面ではヘンダーソン飛行場を灰燼に帰し、マリアナ沖では前衛部隊で来襲する米軍機に立ち向かい、レイテ沖海戦ではタフィ3を追い回しレイテ湾まであと一歩と迫り、呉軍港空襲では三式弾で米軍機に抵抗するなど、開戦から終戦まで主要海戦の多くに参加、損傷を受けつつも戦い続けました。



 かつては世界最強を謳われた金剛型4姉妹も、そろって作戦参加したのはインド洋作戦のみで、ソロモンでは比叡が米巡洋艦と米軍機に、霧島は米新鋭戦艦2隻相手に奮戦するも倒れ、金剛は辛くもレイテ沖を生き延びつつも本土への途上で潜水艦に襲われ、日本本土まで帰りつけたのは榛名のみ。
 しかし、日本に帰りつけはしたもののすでに行動するための燃料はなく、7月28日の呉軍港空襲で米軍機の攻撃によりついに大破着底し、終戦を迎えます。
 昭和21年7月4日、解体作業は完了し、殊勲艦榛名は30年の歴史を閉じました。
 
 

 フジミ新キット榛名はそのままだとマリアナ沖海戦時の状態ですので機銃座の追加、単装・三連装機銃の増強、22号・13号電探の追加でレイテ沖作戦時にしてみました。
 マリアナ戦時よりも機銃・電探が増強され、末期感の漂う姿は格好良くて好きなのですが、この状態のときの榛名はマリアナ戦時の傷が元で26ノット程度しか発揮できなかったようです。